シーザー・アントニオ・ツェペリ × リサリサ

「シーザー!指先に一点集中するのですッ」
「は…はいッ!リサリサ先生!」
 後ろから先生の腕がのび、おれの手首の位置を正した。
 押しつけられたふくよかな感触に、背中がビクンと固まった。
「こ…こうですか先生」
 思わず声がうわずった。

 このシーザー…。
 リサリサ先生を波紋の師として、自分の母と同じように尊敬している……それは確かだ。
 だが…。
 先生とふたりきりでこれほどに密着していると、不謹慎にもあらぬことを考えて、気がそぞろになってしまう。
 それほどに…リサリサ先生は女として美しい。

 リサリサ先生と初めて逢ったのは、おれが16のとき。
 近寄りがたいほどの美貌と、大人の女性を感じさせる洗練された物腰に、ひとまわり年下のおれは一瞬で魅了された。
 リサリサ先生は女でありながら、男も舌を巻くほどに冷静沈着で、どんなときにも感情に溺れるということがない。
 この美しい女性(ひと)は、冷たく澄んだ青い瞳の奥で、いったい何を考えているのだろう。
 何もかも秘密めいたこの年上の美女に、おれはいつも心奪われている。

「シーザー…よけいなことに気を散らせてはならぬッ!」
 気持ちの乱れは、波紋の乱れにつながる。
 当然、おれがリサリサ先生に悩殺されていることは、とうの昔に先生にはバレバレである。

 だがリサリサ先生は、そのことにふれる隙をおれに一切与えない。
 女神のような威厳に満ちた冷ややかさで、リサリサ先生は男としてのおれをはねつける。
(先生おれはもう限界ですッ!)
 真紅のドレスが翻るたび、華麗に舞い散る悩ましい薔薇の香りに…おれはクラクラと眩暈をおぼえた。

 ――沐浴をすませ、ドレッサーに腰掛けて髪を整えていたわたしは、ドアの向こうにシーザーの気配を感じた。
 どうやらネコ足立ちをして、部屋の前を行ったり来たりしているらしい。
 わたしはブラシを置いて立ち上がり、ドアの掛け金をはずしてやった。
「シーザー何をやっているのです…」

「ハッ!…せ…先生」
 挙動不審なサマをわたしに見られたシーザーは、耳のつけ根まで真っ赤になってその場に固まった。
 その様子がウブでほほえましいので、わたしは思わず微笑を浮かべた。
「どうやら用があるようねシーザー…お入りなさい」
 男子禁制のこの寝室に、わたしはシーザーを招き入れた。
 そのとりのぼせた様子から、何の用なのか察しはついていたのだが…もうずっとこんな調子でドアの前をウロウロしていたのだと思うと、すげなく追い返すのがためらわれたのだ。

「先生…おれは今日、弟子としてではなく男として言いたいことがあります」
 戸口につっ立ったまま、シーザーは改まってわたしに告げた。
「言われなくてもあなたの気持ちはよくわかってるわ…だが受け入れるわけにはいかない、それが返事よ……」
「い…いや先生!お…おれは言うぜ!」
 勢い込んだシーザーに、わたしは首を振った。
「落ちついてシーザー…あなたはまだ若い…周りが見えていないのよ」

「先生に受け入れられないことなど、オレは百も承知だ……知っているからこそ来たのです……こ…拒まれるのは…こわくねえ…ぜ……だが…おれは誇り高きツェペリ家の男だ…その血統を受け継いでいる……好きな女性に好きと言わずして、退くなんてことはできんのです」
 わたしはシーザーの目を見定めるように覗きこみ、ため息をついた。
 恋する者には何を言ってもムダだと、よく知っていたからだ。
「しょうがないわ聞きましょう…」

「先生…おれは先生が好きだッ!……」
(ママミーヤ!)
 勢いにまかせて告白したはいいものの、それ以上このもどかしい気持ちを言い表す、うまい言葉がみつからない。
 窮したおれは、感情のまま先生の肩をつかんで口づけた。 
 息をつぐ間もなく、先生のしなやかな手がおれの頬の上で鋭く鳴った。
「シーザーひかえなさいッ!無礼者!!」

 頬に走った熱い波紋の痛みが、情熱の血に火をつけた。
「…わるいがおれはなにがなんでも先生を抱きたくなりましたッ!愛とは本来奪うもの!愛とは!思いやりじゃあないのだッ!だから師弟の掟を破ってでも貴女を奪うッ!!」

 先生は困ったように美しい眉をひそめた。
「フー―…わたしってどうしてこう…熱い男ばかり寄ってくるのでしょう…わたしを手籠めにしたら、あなたは永遠にわたしに嫌われるのよ」
「いいえ先生はおれのことを嫌いにはなれないはずです…先生の波紋とおれの波紋はほら…こんなに仲がいい」
 なれなれしくもおれは先生の手をとり、自分の手のひらにあわせた。
 吸い寄せられるように、ふたりの波紋が重なった。

 先生は険しく眉をひそめ、サッと手をひいた。
「命令ですシーザー!!あなたとわたしは師弟の間柄だということを忘れないで!」
「先生すみません!これだけはきけません!先生も知るように、おれはあなたが好きだ!真剣なのです…ここまでハッキリ打ち明けてしまったら、男として想いを遂げないわけにはいかない!こんな生殺し状態で、もう一日だって平静な気持ちで修行は続けられないでしょう!」
 激情にまかせて弟子としての分際もわきまえず一気にまくしたててしまうと、後は頭が真っ白になった。

 先生はおれを見おろし、冷ややかに告げた。
「わたしは今きげんが悪い…おまえのような不謹慎者とは、口も聞きたくないし顔も見たくない……でも抱きしめるというならためしてみなさい…後悔しながら朝を迎えてもいいならね」
「せ…先生ッ!そ…それでは先生も、おれのことを愛してくださっているのですね!」
「愛?愛ではない…わたしは務めとして、自分の蒔いた種を刈りとるまで……あなたの修行の妨げをこのわたしが作り出してしまった以上、師としてわたしはそれから解放してあげるだけのこと」

(先生は冷淡な態度こそとってはいるが…先生は先生なりにおれの気持ちを真剣に考えている…もう2年も女神のように慕ってきたこの気持ちを!)
 おれは感極まり奮えながら、先生を抱きしめた。

「しょうがないわ、シーザーあなたを受け入れましょう……でもあなたは決して、わたしを自分のものにはできないのよ」
「そ…それは……どういう意味です、リサリサ先生?」
「あなたはわたしの体を抱きしめることはできても、わたしの心まで手に入れることはできない……今以上に恋に苦しむことになるのよ」
「かまいません…おれは必ず、先生の心を溶かしてみせます」

 リサリサ先生は黙っておれに背中を向けると、髪をかきあげ…ドレスのホックに手をかけた。
 息を呑むおれの前でハラリ…と絹のドレスはすべり落ち、眩しい裸身が現れた。
 脱ぎ落としたドレスを胸にあて、先生はおれを振り返った。
「師でありながら、あなたの修行の妨げとなってしまったのが残念でなりません……シーザー…齢の離れたあなたに身をまかせるというのは複雑な気持ちがしますけど、しかたのない運命だったのでしょう」

 ―――その夜のことは、眩しすぎて思い出せない。
 リサリサ先生をこの腕に抱いている…。
 信じられぬ幸福の中でおれは、何度も夢と現の境をさまよった………。

「夜明けだわ…シーザー、もうそろそろ自分の部屋に戻りなさい…」
 甘い陶酔のまどろみのあと、おれは先生に揺すられて目を醒ました。
「先生……」
 たしかに昨晩先生は、おれの腕の中で悩ましい吐息を漏らしたというのに…今となってはかすかに乱れたその黒髪のほか、情事のなごりをとどめるものは何もない……。
「ねえ…シーザーどう?落ち着きましたか……?」
 肩に、先生の手のぬくもりが置かれた。
「……はい」
 気のきいた言葉ひとつ口にできぬまま、おれは子供のようにうなずいた。

「シーザー…あなたが望むのならば、今宵もわたしの部屋へ来るがいい……どうするかはあなたにまかせるわ」
「そ…それは本当ですか先生ッ!」
 驚いて振り返ると、先生は赤い石のついたペンダントを細い首に留めながら、穏やかに呟いた。
「わたしとて木石ではないもの……ただしこの部屋を一歩でたなら、師として容赦はしません」
「望むところです先生!」
 おれは額のバンダナを締めなおし、快活に笑った。