空条承太郎 × 花京院典明 ]\ - 逝く夏 -

 今夜おれは…とても疲れている…。
 あいつの…花京院の…野辺送りに立ち会ったからだ…。
 悲嘆にくれるあいつの両親の意向で…葬儀は密葬としてごく近しい近親者だけでしめやかに執り行われ、そして今宵…荼毘に付された。

 おれたちの中で、あいつの死化粧を拝むことが許されたのは、かろうじて…このおれだけだった。
 前途ある大事なひとり息子を、誘拐同然に遠い国まで拉し去り、あげく傷つけ事故に巻き込み、死なせた張本人たち…。
 いくら言葉を尽くそうとも…あいつの両親の目からすれば、おれたちは花京院を殺した犯人も同然に映るのだろう。
 彼らの立場に立ってみれば…憎まれて当然だ。

 それでもなお、このおれが花京院の葬儀に立ち会えたのは…ひとえに、花京院の残してくれた遺書のおかげだった。
 おそらくはアスワンでの療養中に綴ったのだろう、一通の遺書。
 SPW財団関係者に預けられていたボストンバッグの中から、あいつの死後…発見されたものだ。

 灯明ゆれる通夜の席で、髪の白くなった花京院の父親が、ただおれにだけ、その遺書を見せてくれた。
 少しばかりグリーンがかった薄い便箋には、あいつらしい細やかな几帳面な字で、おれへの感謝の念が切々と綴られていた。
 溢れる想いを無理に抑えているかのようなその文面からは…読む者が読んだならそれと察せずにはいられない、隠し切れぬ甘い情感が、露となって滲み出ていた。

 便箋を握りしめ、言葉もなくうつむいていると…花京院の父親は目を閉じて深く肯き、残されたただひとつきりの息子の形見の品を、何も言わずそのままおれに譲り託してくれた。
 あいつに似て勘の鋭そうなあの父親は…夭折した自分の息子がこのおれとどういう関係にあったのか……ひと目会った瞬間にすべて…見抜いていたのかもしれない…。

 …遺書は机の引き出しの奥に閉まっておこう。
 初めておまえに貰ったあのハンカチとともに……。

 ――冷え冷えとした夜の気配が、水のように部屋の中へと流れ込んでくる。
 布団に身を横たえたまま、おれは深く…目を瞑った。

 花京院―…。
 本当に、おまえは逝ってしまった…。
 利口に澄んだ瞳も、すこしクセのある細い唇も…ついにすべて、おれの前から消えてしまった。
 残ったのは…哀しいほどに幸せだった記憶の破片(カケラ)…おれの腕の中でやわらかに微笑むおまえの横顔…それだけだ。

 別れを告げゆく短い夏の光のように、鮮烈すぎる情熱でおれの胸を射し貫いて、おまえはひとり逝ってしまった。
 おまえの面影…何気ない口癖…そのすべてを……こんなにもおれに愛させたまま……。

 ああ花京院……一度だけでいい、もう一度だけ、この腕におまえを抱きしめてえ…。
 おまえの唇に、冷たい頬に…溢れんばかりの想いを込めて、熱くくちづけしてやりてえ…。
 なあ…たったひと言でいいからよ…花京院…あの懐かしい声をおれに…聞かせてくれや…。

 ――閉ざされた無明の闇に一点…あたかも魔法の鏡の底をのぞくがごとく、在りし日の花京院の姿がくっきりと浮かんでくる。
「花京院………」
 もはや記憶の中でしか会うことのかなわぬあいつの名を、おれは祈るような思いで唇の上に紡いでみた。
 そうして…それは起こった。

「…承…太郎……」
 今にも消え入りそうな声が、闇の中から呼応した。
「花京院ッ!?」
 …おれは跳ね起き、背後の闇をふりかえった。
「……久しぶり……承太郎……元気?」
 その瞬間の驚きは…筆舌に尽くしがたい。
 夢にまで焦がれ見たあの花京院が、机のかたえに頬杖をつき…先の細く消えた脚を優雅に組んで、おれに微笑みかけていたのだから。

「幻…覚か」
 おれはかすれ声でつぶやいていた。
 そうだ…これは幻覚に決まってる…花京院は確かに、あのエジプトの地で、DIOに腹突き破られて死んだのだ…。
 今、目の前にいるのは、あいつへの未練がおれに見せている…幻覚…。

「フフ…君のために…せっかく来てやったのに つれないな…」
 透きとおるほどに蒼ざめた頬を心もち傾け、花京院は生きている時そのままのほっそりやさしい姿で、おれに向かって笑ってみせた。
「本物か?て…てめーいったい……」
「うん…承太郎……君にね…さようならを…告げに来たんだ…」
 百合の花よりもまだ白い手を組み合わせ、花京院はうっすら儚げに微笑した。

「告げに来た…だと?」
 おれは信じられぬ思いでつぶやいた。
「やれやれてめーの体を日本に連れ帰ったのは、つい三日前の事だぜ花京院…エジプトと日本は一万キロも離れてる……体が荼毘に付されたとはいえ、てめーの魂はまだ、エジプトの地に取り残されているんじゃあねーかとおれは……」

 おれの言葉をさえぎるように、花京院は微笑んだ。
「そのことなんだがね承太郎……幽界へ旅立つ前に、現身(うつしみ)の姿のまま君のもとへ訪ねゆくことは…雨月物語の 『菊花の約』の一節から、ひらめいたことだったんだ……『人一日に千里をゆくことあたはず、魂よく一日に千里(四千キロ)をもゆく』ってね……」

「か……花京院…てめえ……」
 澄みきったその声に痛いほど胸がしめつけられ、目の前がひそかに…かき曇った。
「君…泣いているようだが……大丈夫かい?」
 幽婉な花京院の身姿が暗い窓際からスッ…と平行に移動して、おれの膝もとに折り佇んだ。
「ああ…気のせいだ」
 何の涙なのか…おれはわずかに顔をそらし、花京院の視線を避けた。

 花京院は行儀良く正座したヒザの上に青白い指の先を重ね置いて、心配そうにおれの顔をのぞきこんできた。
 こうしているときの背筋のピンと綺麗なその姿も、どこかほっとけない瞳の色も…まさに生きていた時そのものだ…。
 おれは細やかにうち揃えられたその指先に、思わず腕をのばしていた。
「花京……」
 次の瞬間…確かにつかんだはずの花京院の指先は、おれの手の中に何らの感触も残さず虚しく闇に握りつぶされた。

「すまない承太郎…ぼくたち、もう…交わることができないんだ……」
 淋しげにそう呟いて、花京院はかすかに首を振った。
「なんだとてめー…こんな…何もかも…生きている時のままじゃあねーか!…まさか、キスもできねーなんて言うんじゃあねーだろうな…」
 死んでなお美しく翳る花京院の横顔に、おれは髪の毛にさわりはせぬかと思われるほど唇を近づけた。

「ごめん…ホントに…ダメなんだ承太郎」
 花京院は苦しげに顔を背け、制服の袖で口もとを覆い隠した。
「…花京院……おまえ…おまえほんとうに……」
 おれは呆然と、握りしめた拳を落とした。
 そのとき初めておれは…花京院がもはやこの世の者ではなくなってしまったことを、実感として悟った。

「ね……悲しまないでください…承太郎……」
 闇に咲き出ずる花のように控えめに微笑して、花京院は押し黙っているおれを、透ける両腕でそっと抱きしめた。
「承太郎…君に逢いさえしなかったら、永の別れの辛さを味わうこともなかったけれど…でもぼくは後悔していませんよ……君と出逢えたからぼくは…ありのままの自分でいられた…君と出逢えたから…ありのままの自分を好きになれたんだ……心から礼を言うよ…ぼくを…好きになってくれて…ありがとう承太郎」
「花京院………」
 言葉をつまらせ、おれは花京院の姿を抱きしめ返した。

 もはやこの世の交わりを禁ぜられた魂と魂が、ただ互いのかたちだけを感じて、切なく震えた。
「礼を言うのはな…おれのほうだぜ花京院…てめーに出逢わなけりゃあ…おれは一生 愛する意味を知らねーままだった…おれにとって、てめーこそが唯一の花だ……初めて瞳を交わした瞬間、それがてめーなんだとハッキリわかった…どんな女の瞳にもあんな衝撃はこもってねえ……あんな引力は燃えてねえ」

 花京院は無言で微笑み、薄闇にとけこむようにスッと身を離した。
「ありがとう承太郎…ホントのことを言ってしまうとね…ぼくもずっと君の隣で暮らしていたかった…君のぬくもり漂うその場所でずっと…君に触れていたかった……フフこんなことを言うと、ますます君を悲しませてしまうかな…」
 細長い面差しを、ほとんど髪で隠すようにして、花京院は唇をさざめかせた。

「ああ悲しむゼ花京院…そのままの姿でいいからよ…ずっと…おれの傍にいろや…」
 虚しい願いと知りながら、それでもおれは花京院の身姿に腕を差しのべた。
「ええ承太郎……」
 花京院は哀しそうに微笑して、静かに首を振った。 

 不意に花京院の白い気配が音もなく立ちあがり、闇に翳ろうその身をスウッ…と窓際にまで滑らせた。
「承太郎……ひとつだけ君に…ぼくを…残していってあげる」
 白く透きとおったその手になにか光るものをとりあげると、花京院は美しく波打つ巻髪の先を自らサックリと切って、机の上にふせ置いた。
 おれが近寄ろうとすると、花京院は手振りでそれを止め、優しく微笑んだ。
「今は触れないでください承太郎…触れると消えてしまうから……」

 再び花京院は、影のようにおれの傍らへと寄り添った。
「ねえ承太郎…いつだったか君は、ぼくに誓ってくれましたね…ぼくを永遠に愛すると…」
「ああ…今だって、あのキモチに変わりはねえ……花京院、おれは生涯おまえ一人だぜ」
 改めて誓いをたててやると…花京院はまなざしを深くして、微笑を含んだ瞳を静かにおれに向けた。

「ありがとう…君の親友として恋人として、ぼくは心から嬉しく思いますよ……でもね承太郎、君はジョースター直系の血をひくただひとりの人間だ…君には子孫を残す義務がある……もし月日が経って、君の傷手が少しでも癒えたなら…どうかぼくには構わず結婚して欲しい……これは、君の戦友としてのぼくの遺言だよ」

「…花京院おまえ…しかしそれでは、てめーが……」
 表情を曇らせたおれの唇を、先の消えかけた細い指先が諭すようにそっと止めた。
「ねえ…君ならわかるはずだ承太郎……真の友情と愛情によって魂深く結ばれたぼくたちの絆は、もはやいかなる肉体的な愛によっても壊されることはない……永遠不滅のものだということを…」
「…いいだろう花京院、てめーがそこまでいうのなら……おれはあえて甘んじよう」

 花京院は生前、愛を確かめあった時と同じしぐさで、おれの額のあたりにそっと唇を触れてみせた。 
「フフ…君とこうしていると、あの世とこの世のあいだの理(ことわり)まで忘れてしまいそうですよ承太郎……でももう、別れの時間が来てしまった…逝かなくては……ねえ承太郎…ぼくの瞳は地の底で閉じてしまったけれど…ぼくの魂はいつだって君の顔を見守っていますよ」
「花京院……」
「それからね承太郎…今生の別れの際にひとつだけ…君の希みをきいてあげますよ…なにかぼくにして欲しいことはありますか?」

 ――花京院……。
 おまえは去っていく夏だった。
 夜空を流れ駆け過ぎてゆく星屑のように、ただ一瞬で出逢い燃えあがり…そうしてあまりに早く…別れ逝く運命(さだめ)だった。
 だが…愛は時間ではない…。
 愛は…生まれる前から運命づけられている崇高なる魂の法則だ…。

「そうだな花京院…おれは息をとめている……だから、てめーがこの世から消えてしまうその瞬間だけでいい…唇を…重ねさせてくれないか……」
 花京院はすこし困った様子で微笑み…だがおそらくはそうなることを知っていたような身振りで、優しくおれに腕を投げかけた。
「……しかたないなあ承太郎、君はホントに…ぼくとキスするのが好きなんですから…」

「やれやれ花京院…これがてめーに言ってやれる最期の言葉だが……おれは永遠にてめーを愛してる」
「ええ…ぼくもですよ…承太郎…」
 そうしておれは一切の言葉を…時を止め……薄れゆく花京院の上にそっと唇を重ねた。
 ほんの一瞬…あの懐かしい感触が…おれの唇に触れたような気がした。

 ――突然…カタカタと障子戸が鳴って陰風がザッ…と吹き込み、目の前にあった花京院の姿は、跡形もなく露とかき消えた。
 …残されたおれはひとり縁側に出でて…尽きせぬ想いとともに、去り逝く花京院の魂を夜の闇に見送った。