(妙だな……そろそろ部屋に戻っていても、いいハズなんだが……)
離れに渡り、花京院の部屋をのぞいたおれは、灯りが消えたままの室内に首をかしげた。
(あいつ…まだおふくろのところにいるのか?……まさかおふくろの容態が?)
気になったおれは、おふくろの寝ている部屋に向かった。 池に面した渡り廊下を歩いていくと…夜風立つ水面にぼんやり…部屋の灯りが揺らめいているのが見えた。
おれは閉めきられた障子の桟に手をかけ、薄く滑らせた……。
(――――!!)
おれは、息をのんだ。
目の前に繰り広げられていた光景に衝撃を受けたからではない……。
その光景がまるで…お伽話の挿絵を切りぬいたかのように……美しかったからだ。
緑色の制服に堅く身を包んだ花京院は、ほっそり白いおふくろの指先を騎士のように優しくとりあげ…微笑を湛えて甘やかなくちづけを捧げていた。
それは昔…おふくろに読んでもらった『眠り姫』の一幕のように夢想的な情景で…余人には触れることのできぬ繊細なガラスの膜で覆われていた。
…おれの背中越しに、夜の冷気が流れこみ……花京院はハッと顔をあげた。
「………」
凍てつく沈黙のうちに、おれたちは互いを見つめあった。
甘い夢の余韻の尾をひく花京院の瞳に、おれは目のくらむような不思議な嫉妬に襲われた。
つかつかと室内に上がりこむとおれは、言葉を失っている花京院の腕を鷲づかみ、乱暴にひったてた。
ピッシャ――ンッ!
礼儀作法にはうるさいおふくろの躾のせいで…ふすま、障子の開け閉めには一応慎重なこのオレが…怒りのあまりそれを忘れた。
手荒く閉めきった自室の床に、おれは力任せに花京院を叩きつけた。
「てめー………」
胸中に湧き上がってくる、あまりに雑多な感情のせいで…ようよう言葉が続かない。
唇が切れたのか…うつむく花京院の前髪の先から、赤い雫が涙のように滴った。
「てめーやはり……そういうことか」
畳に両手をついて脚を投げ出している花京院の前にそびえ立ち、おれは苦々しく吐き出した。
花京院は…なにも弁解しなかった。
ただ…長いまつげを畳に伏せたまま、薄くかたちのいい唇をキュッと噛み締めた。
うなだれながらも…自分のした行為の意味を隠そうとはしない不遜なその潔さが、よけいにおれの複雑な妬心に火をつけた。
「花京院てめー……」
てめーの好きなのは、おれとおふくろのどっちだッ!
いぎたなく、そう投げつけてやりてえ衝動にかられたが…さすがにその言葉は飲み込んだ。
そんなことは……聞くまでもなくわかっている。
初めて瞳を交わしたあの瞬間…ふたりの体の隅々までもが、稲妻に撃たれたように、互いこそが運命の相手なのだとハッキリ知覚した。
おれが許せねーのは……こいつが一瞬とはいえ心よろめかせた相手が、よりにもよっておふくろだということだ。
聖人じゃああるまいし、花京院が他のどーでもいい女と単なる戯れでキスを交わすぐれーなら…許す。
だが…このおれが方向性は違えど等しく大事に思っているそのふたりが…おれの関知せぬところで、完全なる甘い感情を享有しあったッ…そのことが許しがてえ!
おれはやり場の無い感情を吐き出すように、深く息をついた。
入れ替わるようにフッと…女ギライのこのおれからみても、男心をくすぐると認めざるを得ない、ほがらかで無邪気なおふくろの笑顔が…脳裏をよぎった。
「……………」
(おふくろにフラフラきちまったという点では…こいつをあまり責めることはできねーか……)
おれは畳にヒザをつき、うつむいている花京院の細いあごを持ちあげた。
「まあ……てめーのキモチもわからねーではないがな」
そう言って、血に濡れた唇を親指でぬぐってやった。
「おれともしたことねーようなキレイなキスしやがるんで……思わず嫉妬しちまったゼ」
「な?…なぜ君はぼくを殴らない?」
殴るにはもったいなすぎる女にしたいような魅惑的な瞳を、花京院は戸惑い気味に、おれに向けた。
「さあな…そこんとこだがおれにもようわからん」
花京院の肩に手をかけ、おれは言葉を濁した。
「だが……それとは別に…おれに対する不貞のおとしまえは、つけてもらうぜ花京院」
呟きながらおれは花京院の肩を荒っぽく畳に押しつけた。
「承太郎……すまないが…こんなキモチのまま君とはできない……どうしても許せないというのなら、いっそ顔が潰れるまでぼくを…殴ってくれ……」
唇を真一文字にひき、花京院は自分からおれに頬を向けた。
おれは舌打ちして、花京院の胸ぐらをつかみあげた。
「やれやれ…気がつかねーのか、てめーの顔を潰したところで、おれはまったく嬉しくねえということに……てめーの鼻をへし折れるぐらいなら…最初から、これほど怒ってねえってことによォ――ッ!」
目をみはる花京院を再び床に投げ倒し、おれは鋭く指を突きつけた。
「痛めつけてーのは、てめーの良心だ!」
「な…なんだと承太郎」
弱々しく口ごたえした花京院の頬を、おれは間髪いれずつかみあげて黙らせた。
「うう〜う〜う…う…う…」
「…ゆるしてくれということか?しかしてめーはすでに恋人としてのルールの領域をはみ出した…だめだね!オラァ!」
おれは花京院の両手首をねじりあげ、憎らしいほどに強情なその唇を、乱暴に奪ってやった。
「…ううッ……」
囚われた指先を震わせ、花京院は苦しげに嗚咽した。
蒼ざめ嫌がるその横顔には、痛々しさにすら通ずる言葉にしがたい色気があり…DIOとかいう野郎が、肉の芽を使ってまで無理矢理こいつを慰みモノにしたワケが…なんとなくわかった気がした。
明るく微笑む花京院は素直でやわらかで、思わず抱きしめ護ってやりたくなるぐらいにカワイイが…瞳を辛そうに緊張させ、かたく唇を引き結んでいる花京院というのは
、その細い眉と口もとの翳りに、男の本能を攻撃に転じさせてしまう…危うい脆さを孕んでいる。
「本当に承太郎…今夜はこれ以上できない……許してくれ」
唇を離した途端、花京院は押しのけるようにおれから顔をそむけた。
こいつがおれに対して、これほどイヤそうな態度をとったのは初めてのことだったので…唇だけで許してやるつもりになっていたおれは、許す気がブッ飛んだ。
「なにィッ!こんなもんじゃあねえ……まだ怒りたりねえぜッ!」
苛立ちまじりに荒々しくそう投げつけ、おれは花京院の詰襟のホックをひきちぎらんばかりにむしり開けた。
「……ぅ」
花京院の喉をついて出た、声ともいえないうめき声に…おれはハッとして顔をあげた。
両腕を無惨に投げ出し、力無く伏せられたそのまつげには…血の雫にも似た冷たい涙の粒が光っていた。
(やれやれ……これじゃあ、DIOとかいうゲス野郎と…大差ねーぜ……)
「………悪かった」
おれはそれだけ呟き、後はもう…そっと花京院を抱き起こして学ランの中にうずめてやった。
我ながら甘いとは思ったが…肩を落とした花京院のしおれたうなじに、それ以上咎める気も失せた。
…落ちついてその背中をさすってやれば、しょげかえった花京院の心が痛いほどにおれの中まで流れ込んできて……わだかまっていた負の感情は…砂時計がこぼれ散るように、どこかへ霧散していった。
「やれやれ…もうすでにてめーのペースにはまっている…か……これが惚れた弱みってヤツか?……なあ花京院よ」
声を和らげ、おれは揺れる花京院のピアスを弾いてやった。
花京院は答えず、かわりにそっとおれの胸に頭をもたれた。
「ねえ承太郎……バカ…ですねぼく……」
しばらくして…やや自嘲気味に呟いた花京院のほっぺたを、おれは軽くつまみながら言ってやった。
「ああ…バカだ……大バカ野郎だぜ……てめーもこのおれもな」
男のクセにぷにぷにと柔らかな花京院のほっぺたを楽しみながら、おれは苦笑した。
「まあ……てめーも男だったってことだな、花京院」
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