吉良吉影としての過去を捨て、川尻浩作という男になりかわったあの日から、もうじき一ヶ月が経とうとしている。
私が殺した川尻浩作には、息子と妻がいた。
息子の名は早人。
妻の名はしのぶ…。 初めて川尻家の敷居をまたいだその日、わたしは結婚にも生活にも疲れたひとりの女と出会った。
自分の人生にふて腐れ、夫に当り散らす不機嫌な妻…それがしのぶだった。
彼女の口から飛び出すヒステリックな言葉の数々を少々うるさく感じはしたが、わたしの神経は不思議と少しも怒りを感じなかった。
欲求不満からくる主婦のぼやきなど、死の恐怖の前に女たちが放つ、あの耳をつんざくような断末魔の叫びのけたたましさに
比べれば、どうということもなかったし…わたしにとってその時彼女は、研究目的を達成するまで生かしておいてやる実験動物ぐらいの意味合いしか有していなかったから。
一週間ほど過ぎた頃だった。
わずかばかりわたしの興味をひく出来事が起こった。
そう…あれは…わたしが大家の家賃の催促を『キラークイーン』を使って切り抜けた、あのつまらない事件の後からだったと記憶している。
それまですべてに投げやりで、わたしにつっけどんだったしのぶが、突然見違えるように献身的な、しかも夢見がちといっていいぐらい愛嬌ある女に
変身したのだった。
それまでの刺々しい物言いはすっかり影をひそめ、まるで女子学生時代にでも戻ったように、身だしなみに気をつかいはじめた。
折をみては小娘の様に顔を赤らめ、わたしの機嫌を伺ったり…果てはふたりきりの寝室で、わたしの気をひくようわかりやすく肌を露出してみせたり…。
彼女の心の動きなどわたしには全てお見通しだったが、しょせんは他人の妻だった女……。
彼女をどうにかする気など、まるでなかった。
彼女しのぶには、わたしが川尻浩作としての生活を平穏に偽装していくため必要不可欠な歯車の一部として、その役割を忠実に果たしてもらえれば、それでよかった。
この吉良吉影…それ以上のものなど、何一つとして彼女には期待していなかった……そのはずだった。
それが今夜……わたしは自分から求めて、しのぶを抱いている。
この手で彼女を殺すつもりもないのに……!
『背筋が凍る』という言葉がある。
わたしは今朝、その言葉の意味する感情を、生まれて初めて理解した。
猫草の襲撃。
人形のように吹っ飛んだしのぶの体と、溢れ出した赤い鮮血。
なぜ…。
なぜ…生まれつき他人の流す血の色に愉悦と興奮しか感じることの出来ぬこのわたしの心に、彼女の傷はあれほどまでの衝撃をもって深々と突き刺さったのか。
「これ以上彼女を攻撃させるわけにはいかない…きさまには……消えてもらう」
グッタリ崩れた彼女の体を腕に抱きかかえ、毅然と言い放ったあの人間は、本当にこのわたしだったのか?
『猫草』が飛ばしてくる無数のサボテンの破片を、身を楯にしてザクザクと背中に受け止め、彼女を庇いぬいたあの男は、本当にこの吉良吉影だったのか?
…信じがたいが…わたしはあの時、自分の身を守るという概念をまるで忘れていた…本当に…。
ただ…しのぶの閉じられた瞳を、無防備な頬を、むき出しの手脚を…トゲの襲撃から守り通すことで頭がいっぱいだった。
自らの平穏無事な生活の保全を何よりも優先して生きてきた、この吉良吉影が……だ。
よりにもよって他人の妻だった女を…あそこまで身を挺して庇うだなど………バカげている……なぜ…?
「し…しのぶッ!」
サボテンの攻撃が止むやいなや、わたしは意識を失った彼女を抱き込み、その頬に手を触れた。
そうして、彼女の瞳がサボテンのトゲに傷つけられていないことを切に願いながら、ほとんど息を飲んでその横顔に見入ったのだった。
「………………」
彼女のまぶたには、幸運にも一本のトゲも刺さってはいなかった。
そのことを確認し終えると同時に、張りつめていたわたしの心は、湧き上がってくる穏やかな熱にとけていった。
わたしは安堵…まさに安堵しながら、彼女の頬に添えかけた自らの手を引っ込めた。
そうしてその場でハッと…我にかえった。
(なんだ…?この吉良吉影…ひょっとして今、この女のことを心配したのか?彼女の目にサボテンのトゲが刺さらなかったことに…今、心からホッとしたのか?なんだこの気持ちは…)
自分でも把握しかねるその自らの感情に、ひとりでに指先が震えた。
それはこの吉良吉影が初めて体験する…しごく不可解な感情だった。
介抱するようにそっと彼女の首の後ろにまわされていた自分の手を、わたしは驚愕のまなざしでみつめこんだ。
(このわたしが…他人の女の事を心配するなどと…!)
(……いや違う!この女がもし死んだら、あの空条承太郎にこの家の事が知られる心配があるだけ…この女が無事でホッとしたのは、その事だけのせいだ………ただそれだけ…)
そう思い込もうとするそばから…疼き塞がるようななんともいえぬ感情が頭をもたげてくるのだった。
この吉良吉影が、こんな本来係わり合いのない女のために、必要以上の労力を割くなど…まったく馬鹿げたことだった。
わたしはそう考えなおし、家の中に彼女を運び込むとすぐ、その場から立ち去ろうとした。
ところが…ソファーの上で蒼ざめ横たわる彼女の頬に、小さなサボテンのトゲが残っているのを見つけた途端…わたしの足は止まってしまった。
…結局、わたしは会社に遅刻の電話を入れて、しのぶが目覚めるまでずっと傍らにつきそってやったのだった。
笑い話の種にもならなかった…。
この吉良吉影が…。
女を殺すことなくしては生きられないこのわたしが…女に対して、こともあろうにいたわりにも似た感情を抱くなど…。
まさか…このわたしにも…人間らしい感情が……?
………。
その晩、わたしはベッドの上で彼女の足首の包帯を巻きなおしてやった。
血の滲む…白い足首。
自分ですらもてあましてしまうその妙な感情を抑えかね、わたしは…自分でも知らぬうちに彼女を押し倒していた。
「あ…あなた!?」
彼女は突然のわたしのふるまいに驚きを走らせたが、わたしはなにも答えなかった。
性急にしのぶの胸をくつろげ、思いを遂げた。
彼女は、もう長いこと実の夫との生活がなかったらしく…わたしが無表情な目でのぞきこむと、顔を赤らめわたしの胸にもたれかかった。
その様子がなぜとはなく…好ましいと思った。
女を犯すといつも衝動が抑えきれず、その細首を鶏を縊るように力いっぱい締めつけてしまうのだが…今夜だけは違った。
不思議なことにこの吉良吉影が…まるで殺す気がおきなかった。
ただ…彼女を抱いている、その行為だけで…純粋に満足をおぼえた。
ホンモノの夫であるかのように彼女を抱き、中で果てた後、わたしは詫びた。
「驚かして………すまない」
しのぶはつかんだシーツ胸元を押さえながら、まじまじとわたしを見あげた。
「…とんでもないわ……今日のあなた…その…別人みたいね」
「………」
しのぶはわたしの愛撫のしかたが、夫だった川尻浩作のものと違うことに気づいてしまっただろうか?
今日はつい……気の迷い……でこの女を抱いてしまったが、今後は自制しなければ……。
全く、この吉良吉影らしくもない一日だった…。
このわたしの内にこんな感情が…眠っているとは……。
何も疑わず無邪気にまとわりついてくるこの女に……情がうつったのか……?
そこらへんのところが自分でもよくわからない…が…恐らくわたしは今後『この女だけは』…殺すことがないような気がする。
翌日、わたしは何ごともなかったように朝を迎えた。
しのぶは普段以上ににこやかな笑顔で、玄関先まで見送りに出てきた。
「それじゃあ…行ってくる」
「行ってらっしゃい…あなた」
しのぶは目を閉じて、出がけのキスを求めてきた。
わたしはごく当たり前に彼女に唇を近づけて、寸前で我に返った。
(バカな……いくらなんでも…どうかしている……)
わたしは無言で、玄関を出て行った。
|