シンガポールの街並みが、白い糸雨にけぶっている。
遠く雨垂れの音だけがおれを包みこむ、こんな昼下がりには…シェリーのことを想い出さずにはいられない。
おれとシェリーは――…ふたりきりの兄妹だった。
生後ほどなくして、かわいそうにシェリーは母を失った。
いたいけな幼い妹をあらゆるこの世の悲しみから護るため、おれは彼女の騎士たろうと子供心に誓ったのだった。
…思えばおれのチャリオッツは、そんなところから生まれたのかもしれない。
シェリーは母の顔を知らぬまま、それでも朗らかな少女に成長した。
世の兄貴ってヤツはたいてい、妹に対して特別な愛情を抱くものだが…片親だったことも手伝って、おれは並の兄貴など遥かに及ばぬ深さでシェリーを愛した。
道行く人が振り返らずにはいられぬシェリーの美しさが、兄貴のおれには照れくさくも喜ばしく…その一方で、何処かおれの手の届かないところに行ってしまいそうで不安でもあった。
あれは3年前…おれは19歳。
おれとシェリーはピクニックの帰り、町はずれの小径で驟雨に襲われた。
ネズミ色に垂れ込める空に走った稲光は、鋭い雷鳴とともに、少し早い夕立をおれたちに浴びせた。
おれはシェリーの手をひき、無人のあずまやに駆け込んだ。
屋根の木目に染み込んだ雨水が、まばらに水滴を落としてはいたが…たっぷりと干し草の積み上げられたその空間は、おれたちふたりが雨を凌ぐにはもってこいの場所だった。
「…雨……凄いわね」
シェリーの呟きに振り返った途端、思わずおれは頬に両手をあてていた。
「おお!おおシェリーそんなに濡れてッ…大変だ風邪をひいちまうッ!」
おれはすぐさまシャツを脱ぎシェリーの頭に被せると、必死こいてワシワシその髪を拭いてやった。
シェリーはされるがまま、静かに笑った。
「なぜ笑っているんだ?こそばゆいのかい?」
おれは手を止めて、シャツの下に隠れているシェリーの顔を覗き込んだ。
「いいえ違うわ……だってこのシャツ…お兄ちゃんのにおいがするんですもの」
雨は……止まない。
冷たく濡れた肩を温めてやろうと、おれは小さい頃してやったようにシェリーの体を抱き寄せた。
その途端シェリーは身を震わし、突き離すような仕草でおれの腕からすりぬけた。
「だめ…来ないで…これ以上あたしのそばに来ちゃだめ!!」
予想だにしなかったシェリーの反応に、おれの指先は空をつかんだまま硬まった。
「な…なぜだ何を言うんだ…」
シェリーは顔を背けたまま、何も言わない。
おれはわけもわからぬまま、再び問いかけた。
「シェリー…なぜ逃げるんだ?お兄ちゃんなにか気に障ることでもしたかい?」
返事の代わり…屋根にうちつける雨音だけが、小屋の中にただひそやかに響くのだった。
「…だって」
うつむいたまま、シェリーはようやくポツリと言葉を落とした。
おれはためらいがちに、シェリーの髪をそっと撫でおろした。
「なんだい?」
「シェリーいけない子なんです……もの…しくしくしく」
華奢な肩を震わせ、シェリーは細い指先で顔を覆った。
「神様だって怒るわ……しくしくしく」
「なぜ泣いているんだ?なにが悲しいんだい?なんでもいってごらん…おれはおまえの兄貴だよ」
「だって…あたしの事きらいになるわ」
「きらい!?一度だっておまえのこと嫌いだって言ったことあるか!」
「あるわ…子供の時…お兄ちゃんの飼ってた熱帯魚をネコにあげた時…すごくおこって嫌いだっていったわ」
(ああシェリー!…そんな昔のこと…!)
こみ上げてくるシェリーへの愛しさゆえに、思わずおれの頬は緩んだ。
「ああ…あの時は怒ったけど…いつでもおまえのことは愛していたさ…今でもさ」
甘く優しい想いに満たされながら、おれはこの泣き虫の妹の頭をなでた。
「ほんと?いつでもあたしのこと…愛してくれていた?」
おれの胸にもたれるように手をあてて、シェリーは囁いた。
「あたり前さ」
「どんなことしても愛してくれる?」
「どんな時でも愛してる」
誰より愛しいこの妹を、おれはしっかりと胸に抱き寄せた。
――ああ…知らぬ者の目にはそれはさながら…仲睦まじい恋人どうしの愛の語らいと映ったに違いない…。
「でもなぜ泣いてるんだ…なにが悲しいんだ?」
瞳に浮かぶ涙の粒を指先でそっと拭ってやりながら、おれは腕の中のシェリーに問いかけた。
「悲しい?いいえお兄ちゃん……あたし悲しくって泣いてるんじゃあないわ…わたしお兄ちゃんを……」
シェリーは涙をいっぱいに溜めたまま顔をもたげ……そうして、おれに…唇を…重ねたのだった。
おれは呼吸を忘れた。
――そのときのシェリーの表情も…ひたむきな唇の熱も…おれは憶えていない……ただ、終わりない雨の音だけが、鮮烈に耳を通り過ぎていった。
「シェ…リィ…」
ようやく唇を離した妹に、おれはかすれ声で訴えかけた。
シェリーの透きとおった瞳はおれの視線をすりぬけ、雨どいから滴る雨水の行方をぼんやり映し出していた。
「シェリー…おまえ……」
「ごめんねお兄ちゃん…わたしお兄ちゃんを……好きになってしまったの」
「そ…それは……シェリーま…まさか……」
「ええ……」
うなずきの奥にこめられた想いの深さに…おれはただ…絶句するほかなかった。
シェリーの冷たい指先がツゥーッとおれの手の甲を滑った。
「…ねえいいでしょ…一度だけ抱いてくれても………いつもシェリーの言う事何でもきいてくれたじゃない…」
――思い悩むことに、もう疲れ過ぎてしまったのだろうか…シェリーは虚ろな瞳で底なしに明るく囁いた。
おれは呻くように絞り出すのがやっとだった。
「い…いや、ダ…メだ……それだけは…ダメだ……だっておまえはおれの妹なんだぞ…おれの…」
シェリーは淋しそうに微笑み、静かにおれを遮った。
「お兄ちゃんやっぱりそう言うのね……でもわたし、ずうっとお兄ちゃんのそばにいるわ……一生どこにもいかないわ……」
ひっそりと絡みついてきた愛しいシェリーの白い指を…おれはもはや…振り解くことができなかった…。
『妹を愛してしまうことは罪なのだろうか…?』
高いところから低いところへ水が流れるように…おれはただシェリーを愛し、シェリーはただおれを愛した……そうなることが必然だった。
降り止まぬ雨の音におれは、引き返すことのできぬ運命の調べを聴いた。
震える指先が、肌色に透けたブラウスを寛げ…胸もとに伝う雨のしずくは、乾いた唇を潤した。
熱いこの掌の中で、その胸は優しく静かに息づいていて、おれが力を込めるとたちまち桜色に染まった。
そうして……華奢な鎖骨にこぼれかかる濡れ髪の妖しい揺らぎは、おれたちのしていることの意味を、否応なくおれの前に突きつけた。
綺麗ごとは言うまい。
一すじの赤い血の滴りとともに、確かにおれは、実の妹の禁断の果実を口にしてしまったのだから。
ああ…それでもだ!
それは罪と呼ぶには、なんと甘く哀切に透きとおっていたことか…!
シビれるような肉の快感なんてくそくらえッ…おれはただ純粋に嬉しかったんだ…シェリーをこの全身全霊で愛している…そのことが!
「わたしたち…兄妹じゃあなければ…よかった…ね」
おれの肩にしがみつきながら、かぼそく震えるシェリーになんの罪科があったろう…。
罪は全て…兄貴であるおれにある…。
「兄妹だったからおまえに出逢えた……もう一度生まれ変わるとして…それでもやっぱりおれは…おまえの兄貴でいたいよ…」
干し草に埋もれたシェリーの胸もとの白さを…頬にきざした艶やかなバラ色を…愛しいおまえのしぐさの全てを、おれは決して忘れない。
おれたちは以前にもまして深く結ばれ、おれは命ある限りシェリーを離すまいと固く誓った。
…それなのに、数ヵ月後のあの忌まわしい雨の日…シェリーは突然おれの前から消えてしまった。
学校の帰り道…彼女は両手が右手の男に辱めを受け、殺されたのだ。
おれは妹と恋人を…同時に失った…。
神がいるとするのなら……これがおれたちに下された罰なのか…。
シェリーの無念を晴らすため、おれは両手が右手の男を探して、もう足かけ3年世界を回っている。
その復讐心だけが…ぽっかり空いた心の空洞を埋める唯一の心の支えだった。
だが…正気を取り戻した今…ふと思う。
ヤツを殺したところで、おれのシェリーは戻ってこない。
たとえ一瞬でもいい…この腕に…。
もう一度だけおまえを抱きしめられたなら……本当におれは死んでもいいくらいなんだ…シェリー…。
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