この館に来てから…ずっと気になっているものがある。
2階左の広間の壁にかけてある、ヒビ割れた石の仮面だ。
その石仮面の前にくると、なぜかいつも…呼びとめられでもしたかのように立ち止まってしまう。
見たところ、ただの骨董品の域を出る品とも思えないのだが……。
部屋に人影がないのを幸いに、おれはその石仮面に手を伸ばした。
石の冷たさが手のひらにズッシリ沈み込んだ瞬間、仮面がおれに向かって不気味に笑いかけた!…ように見えた。
おれは眉をしかめて石仮面を見つめなおし…非科学的な自分の想像を打ち消した。
単なる無機物に感情を認めるなど……そんなのは、このディオらしくもないくだらん考えだ。
「!」
その時、嗅ぎ覚えのある煙草のにおいが、かすかに鼻をついた。
サッと視線を横に走らすと…パイプをくわえたジョースター卿が、柱の影から、無言でおれの様子を観察していた。
おれは急いで振り返り、神妙な面持ちで頭を下げた。
「すみませんジョースター卿、かってにさわったりして…すごく不気味な仮面なもので……」
「いやいやかまわんよ」
ジョースター卿は鷹揚に手をあげ、それ以上の謝罪を押しとどめた。
石仮面を元通り壁にかけなおしながら、おれは訊ねた。
「高価なものですか?」
「いいやさほどでもないな……」
ソファーに腰掛けたジョースター卿は、意味ありげにおれの顔を覗き込んだ。
「仮面に興味があるのかね?」
「いやぜんぜん」
おれはかしこまった態度で一礼して、その場を離れた。
物分かりのいいふうを装っていても…実のところ恐ろしく気位の高いこいつら貴族は、自分たちの階級の権威が傷つけられることを何より嫌う。
うっかり夜の寵愛に驕って、白昼…他の者の目の光る処で、狎れた態度をとるのは、身の破滅というものだ。
――その晩…柱時計が11時を告げた頃…隠し扉の錠が静かにはずされた。
いつもの『お勤め』が今夜も始まる。
ベッドから身を起こし、振りかえったおれは…瞬時に事態を察して凍りついた。
闇に浮かぶジョースター卿のその顔は、人が変わったように暗く残忍に歪み…その右手には…石仮面とムチが不気味に息づいていた!
「うッ…卿…許してください」
ガウンの紐でおれの手首の自由を奪い、ムチで打擲するジョースター卿に、おれは声をつまらせ哀願した。
石仮面の下で、ジョースター卿の碧眼が酷薄な光をはなった。
「いやいや許さんよディオ…手癖が悪いのは君の父上譲りのようだね……だいたい君も…こういう遊びに興味があるから、勝手に仮面にさわったりしたのだろう」
石仮面を顔にあてがったジョースター卿は、いつもどおりのやり方で嬲るだけでは飽き足らず、ゆらめく蝋燭のしずくをポタリポタリ…とおれの敏感な下腹部に傾けた。
苦痛にもだえるおれの体を、ジョースター卿は喜悦の呻きを洩らしながら何度となく深く刺し貫き、乱暴に陵辱した。
――翌朝、執事に揺すり起こされたとき…おれは引き裂かれたシーツの上で、汚されたままの肢体を投げ出し、死んだようにうつぶせていた。
ベッドの上で昨夜行われた異常な出来事について、執事はただの一言もふれることはなく、ただ『卿が朝食の間にてお待ちしておられる』旨だけをおれに告げて、
そそくさと出て行った。
手渡された新調のネルシャツを、おれはそのまま床に叩きつけた。
あいつら…使用人は…ジョースター卿と同罪に値するッ!
保身のために見て見ぬをふりしながら、陰でこのおれをあざ笑うゲスどもめ!
卿もろとも…一人残らず、地獄の業火にくべてやりたい!
屈辱的な情事の傷痕を体に刻んだまま、朝食の間へおもむくと、ジョースター卿はそしらぬ面持ちで、実に機嫌よくおれを出迎えた。
「おはようディオ君……時間に遅れるなど、君にしてはめずらしいことだが…どこか具合でも悪いのかね?」
――学校へ向かう前、ジョースター卿はおれを書斎に呼びつけ
た。
そして、昨晩の狂気が嘘のような紳士然とした穏やかさでもって、おれにこう訓戒した。
「ディオ君…わたしとの養子縁組を解消したいなどと考えてはいけないよ……万が一、君がそんなことを望んだりすれば…わたしは、13年前君の父上が私から盗んだ高価な婚約指輪の返還を、息子の君に請求しなければならなくなる」
「指輪!……13年も前の指輪
を?ぼくにそんな法的義務があるとは思えませんがねジョースター卿」
それまで従順をよそおっていたおれは、初めて冷ややかに切りかえした。
ジョースター卿は書類に淀みなくサインを滑らせながら、おれにむかって穏やかに微笑してみせた。
「ディオ君…君はすっかり忘れているようだがね…この国では、貴族こそが法なのだよ……。ああそれから。君のパプリック・スクール入寮の件は、ことわったよ……。わかるだろうディオ君?自分の家の方が
、安心して義理の息子を教育できる」
――夕方、おれはジョジョと肩を並べ、黒塗りの馬車で帰宅の途についた。
「ディオ……そのアザどうしたんだい?」
座席にグッタリもたれているおれの首すじに、ジョジョがおそるおそる指をふれた。
「何してんだ?気やすくぼくのカラダにさわるんじゃあないぜ!」
反射的に防御本能が働いて…おれはつい『親友』の演技を忘れ、ジョジョの手首をねじりあげてしまった。
「そんな…ぼくは君の事を心配して……」
ジョジョの顔が曇るのを目にしたおれは、あわてて語調を和らげ取り繕った。
「悪かったよジョジョ…ちょっと気が立ってたんだ」
「うん…ぼくも急にカラダにさわられたらビックリすると思うし、気にしてないよ」
人を疑うことを知らぬ善良なジョジョの面差しに、おれは無言の笑顔でこたえながら…これまでにない深い憎しみをおぼえた。
――初めて出逢った時から…いや…もしかすると、
この世に生まれ落ちた瞬間から…おれはこいつを憎んでいたのかもしれない。
このおれが自分を汚し、何かと引き換えにすることでようやくこの手にいれることを許される諸々を…ジョジョは生まれながらにして、しかも何ひとつ失うことなく、全てその手中に収め得るよう約束されている!
…おれは……耐えきれず、蒼ざめたまぶたを閉じた。
冷たい汗の浮かぶおれの横顔には…相も変わらず、ジョジョの物問いたげなまなざしが、ひたむきに注がれている…。
氷のようなおれの心にも、ジョジョのそのまなざしが…貴族のお家芸である『うわべの同情』とはまるで別種の、ジョジョらしい『純粋な優しさ』に根ざしたものであると…ハッキリ感じとれた。
そのことが…凍えそうな体の悪寒にもかかわらず…おれの中の憎しみを逆に、やり場のないほどに燃えたぎらせた。
くそッ…!
ジョジョのおれに対する気持ちが本物であればあるほど…!おれはその純粋さゆえに…ジョジョを憎まずにはいられないッ!
「ディオ…熱があるみたいだねグッタリして……君の手…熱いよ」
震えるおれの手のひらに、ジョジョの心配そうな指先がためらいがちに重ねられた。
「…ありがとうジョジョ…でも本当に少し疲れてるだけだよ…たいしたことないんだ」
力無くジョジョの手を握り返したおれの胸中には…愛とも憎しみとも名づけることのかなわぬ凄まじい感情が、真紅の炎に包まれ轟々と渦を巻いていた。
ジョジョ…おまえのその無神経な優しさが…このおれの心をどうしようもなくかき乱す!
おまえの純粋さを、おれは…許さない。
おまえの父親がおれに与えているのと同じ恥辱を…息子のおまえも味わうがいい!
――おれが、ジョジョの純潔を奪ったのは…それから間もなくのことである。
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